2018年の報告から少しの時間が流れ、多くの人々がクマノザクラを利用しようと躍起になっています。一緒に調査をしていた人たちは、地域振興という正義を盾に、見せかけの自然保護を武器にして大衆を誘導しています。名誉や正義は、ある生物種の歴史的背景や存続を天秤にかけるほどの価値があるのでしょうか?
クマノザクラが山の中でかなり大規模に植樹されるような事例も出てきました。それらの行為がどのような意味を持つのか、その真意がきちんと理解されているのかは疑問に感じます。
【‘河津桜’に潜む危険】や【オオシマザクラの大きな脅威】でも示してきたように、サクラの植栽は自然生態系に対して大きな悪影響を与える可能性があります。そしてそれは、自生種であるクマノザクラを植栽する場合においても同様です。
今回の投稿では、クマノザクラの活用が今後どのような方向に進むべきなのかということを考えていきたいと思います。
クマノザクラとは?
クマノザクラ(Cerasus Kumanoencis)は2018年に報告された新種のサクラです。「新種」というと、未開の地に入って、いままで誰も見たことのない生物を発見することを想像する人が多くいますが、クマノザクラの場合はそれとはまったく異なります。熊野地域に住む人々からずっと愛され、まもられてきたサクラでした。存在がずっと知られていたにもかかわらず、山桜として大雑把に捉えられ、学名がついていなかったというだけの話です。
テレビなどでは事態をよりセンセーショナルに盛り立てようと「発見」という言葉が使われていますが、一般社会の言葉の使い方を考えれば「報告」と表現するのが妥当ではないかと思います。また、「新種として登録された」や「新種として認定された」と表現されていることも見かけますが、事実とは少し異なっています。
いまのところ、専門家であってもこの地域のサクラを正確に識別できる人はいないと僕は考えています。個体ごとの変異の幅が大きいことと、他のサクラとの交雑が起こることがとても多く、クマノザクラの定義そのものができていないことが要因です。これには時間をかけて形態的特徴の観察を続けていくと同時に、遺伝子解析などの結果を紐づけていく作業が必要になります。
オオシマザクラとの交雑が疑われる個体は、その形態に比較的明確な特徴が表れています。しかし現実にオオシマザクラがこの地域に導入された歴史を考慮すると、すでにF1以降の世代が存在している可能性は高く、そのような個体を形態的特徴だけで同定することは極めて危険です。
また、自生地で混在しているヤマザクラとの交雑については、種として成立する過程において生じた交雑で、クマノザクラの一部として判断するべきものなのか、最近生じた交雑の結果で、雑種として扱うべき個体なのかという判断を正確に行うことも不可能です。
そもそも、クマノザクラがどのようにしてひとつの種として成立してきたのかという問題は、今のところ正確に把握されていません。クマノザクラとしての特徴から逸脱した個体や、違和感を覚えるような個体が、種としての変異幅であるのか交雑の結果であるかを示すことは、今後解決するべき重要な課題だと考えています。
このような現実の中で、明確な根拠を示すことなく言った者勝ちで既成事実を積み上げ、経済利用を推し進めるやり方は極めて不健全であり、取り返しのつかない大きな問題を引き起こす可能性があります。地域振興や経済の活性化が目的であっても、大量にクマノザクラの苗木を移動させるような植栽や、不特定多数に対する販売などは慎むべきであると思います。
健全な活用のためにはまず事実を解明し、広く公開していくことが必要です。それがなされないまま苗木が無秩序に拡散され、経済利用しようとする動きが独り歩きしていく現状には、極めて強い違和感を覚えます。
クマノザクラの現状
紀伊半島の南部は、古くから紀州備長炭の生産地として盛んに炭焼きを行ってきました。それと同時に「桜は伐るな」という地域の約束を守りながら山の利用してきた歴史があります。そのような人の営みは、結果としてクマノザクラが生育しやすい環境を整えてきたと考えられます。実際に行った調査では、100年以上にわたり人為的な伐採が行われていない那智山や、北海道大学の演習林ではクマノザクラが分布していないことを確認しています。クマノザクラの生育には、適度な人の手が必要なのだと感じています。
エネルギーが薪炭から化石燃料へと変わったことで、広葉樹は維持管理されることがなくなりました。また拡大造林などの施策によって、天然林そのものが減少しています。そして人々は山から離れていきます。
山の中では、シイやカシなどの成長の早い常緑樹との争いに負け、倒れていきます。30年ほどのサイクルで世代交代が繰り返されなければ、クマノザクラは種を繋いでいくことができません。
シカなどの野生動物による食害を受け、クマノザクラの子どもたちは育つことができません。山の中でサクラの実生を見かけるのは5月くらいまでのことです。それ以降は同じ場所に行ってみても、ひとつも残っていません。薄暗い林床の中で十分な光を獲得できずに枯れていくか、伸びだした芽がシカによって食べられるかのどちらかが待っています。
山の中に点在しているクマノザクラは、30年後には周囲の被圧に負けて倒れ、大きく数を減少させているでしょう。しかしそれに代わる次の世代が育つことはありません。人と山との関係がかわらない限りは。
ベストイレブン
まず最初に必要になるのは、植栽を行おうとする場所のもともとの環境がどういったものなのかを充分に知るということです。それが都市部の公園や屋上緑化などである場合、あまり気にする必要がないのかもしれません。【自然とは何か?】の中でも書いたように、植物の役割や人との関係性は、環境によって異なります。残念なことに、周囲に配慮すべき自然がほとんど残っていない場所もあるのです。
しかし農村や山村と呼ばれるような地域で植栽を行おうとする場合、考え方はまったく異なってきます。そこにはもともとある自然環境がすぐそばに存在しているからです。
それがクマノザクラの自生地である場合、さらに大きな配慮が必要になります。植物は一個体が自ら移動することはありません。クマノザクラは野生のサクラであるため、クローンである染井吉野や河津桜とは異なり、花を見ればひとつひとつすべてが異なります。また、河川の流域や地域などのある程度の個体群ごとに共通した傾向や特徴を持っている場合があります。つまり地域ごとの特性があるのです。
優れたひとつの母樹系統から増殖された苗木や、クローン増殖された個体などを大量に移動したり、植栽することは、もともと地域にあった自生のクマノザクラの地域性の撹乱を引き起こします。
地域性の消失は、長いあいだクマノザクラがこの地で育んできた種としての歴史的な背景や、生態的特徴に影響を与え、地域での存続に悪影響を及ぼす可能性があります。そして何よりもクマノザクラが持つ「それぞれの個性」という最大の魅力を失わせてしまうことにつながるのです。
皆さんは全員が大島優子のAKBが見たいですか?9人全員が大谷選手のWBCを観たいですか?11人全員がメッシ選手のワールドカップに熱狂できますか?前田のプレスがあり、堂安のゴラッソがあり、権田の18秒があり、三苫の1ミリがあり、田中の執念があったからこそ、そこに感動が生まれたのではないでしょうか?僕はそれがクマノザクラの魅力だと思っています。
交雑の機会
染井吉野、河津桜、オオシマザクラやエドヒガン(枝垂れ桜)などの外来のサクラが近くにある環境でクマノザクラを植樹した場合、新たに交雑の機会を増やすことに繋がります。僕たちは、花粉を運ぶミツバチや、種子を運ぶイタチやタヌキの行動をコントロールすることなどできません。
外来のサクラは、過去の自分たちが行ってきた大きな過ちなのだと思います。誤った過去を清算することなく、何もなかった事にしてまたあらたに植栽を繰り返すのは無責任で愚かなことです。きちんと目を向け、現実を受け入れたうえで次のステップへと進んでいくべきではないでしょうか?
クマノザクラを活用して地域を元気にしようと思うのであれば、まずクマノザクラを元気で健康な状態にするための努力をすることが重要だと思います。
※外来のサクラがもたらす影響や交雑の危険性については、既に書いた【‘河津桜’に潜む危険】や【オオシマザクラの大きな脅威】を参照してください。
実際に交雑が起きている現状を目の当たりにすると、シカの食害などによってサクラの後継樹が育たないことは、良い面もあります。種間雑種の果実が摂食され、種子が拡散されたとしても、いまのところシカがそれを食い止めてくれていると捉えることもできるのかもしれません。
SNSなどを見ていると、このような種間雑種をクマノザクラとして紹介している事例も見かけます。間違った情報の拡散は、事態を想わぬ方向に悪化させるのではないかと心配しています。
また基本的に一度生じた交雑の問題は、二度と取り返しがつきません。だからこそ植栽は慎重に行われる必要があると考えています。
朝三暮四
むかしむかし、宋(そう)という国に、狙公(そこう)と呼ばれる人がいました。ある時、彼は生活が厳しくなり、飼っていたサルに「トチの実を朝に3つ、夜に4つ与える。」と伝えました。するとサルたちは、数が少ないと文句を言いました。そこで狙公は「朝に4つ、夜に3つ与える。」と伝えると、サルたちはとても喜びました。一日の量は変わらないのに、朝に食べる実が3つから4つになっただけで、数が増えたと勘違いしたという話です。このことから、少し見せ方を変えるだけで全体がかわっていないことに気づかないこと、言葉巧みに相手をだますことを表す故事成語が「朝三暮四」です。
クマノザクラを植栽すると、目の前のクマノザクラは確かに増えます。しかし実際はどうでしょう?見えている範囲が全てではないということを自覚しなくてはいけません。遺伝的に考えた場合どうなのか?長期的に考えた場合どうなのか?それが想像できなければ、僕たちはサル以下の存在になってしまいます。
すべての自動車がEVに代われば、環境問題は解決するのでしょうか?化石燃料を燃やす場所が、自分の車の中ではない自分からは見えないところに移動しただけの話ではないでしょうか?化石燃料を燃やす代わりに原発を稼働させれば良いのでしょうか?根本的な問題が解決していないことには多くの人が気づいているはずです。
どうか見せかけの自然環境保全に騙されないでください。
クマノザクラとクマノビト
技術や情報などが発達したこの現代の社会において、クマノザクラが新種として報告されたという事実は大きな衝撃でした。僕はこの機会を、流通や植栽までを含めた、現代社会が植物と向き合う姿勢を改めるためにもたらされた素晴らしい機会だと感じました。しかし多くの人にとってはそうではなかったようです。私利私欲のためにクマノザクラの存在価値が踏みにじられているように思います。
現代におけるサクラの存在は、食料やエネルギーなどの人々が生きていくことに直結するものではありません。これまでは見向きもされず、誰にも活用されてこなかったわけですから、経済的な既得権が存在しているわけでもありません。このような条件の中で、社会全体が‘クマノザクラを守ること’よりも‘クマノザクラを利用すること’に傾倒していく様子を見ていると、パーム油生産を目的とした森林伐採や、エネルギーを確保するための原発の稼働、生命を守るための核実験など、生きていくための大義が存在している世界のあらゆる問題は、絶対に解決することはないだろうと思えてきます。多くの人にとって、歪んで見えながらも許容せざるを得ないほとんどの問題は、「生きるため」という目的をもって納得されている場合がほとんどなのだろうと思います。それは徐々に、「幸せに生きるため」になり、なし崩し的に「より快適でより便利に生きるため」、「ほかの人が羨むように生きるため」へと突き進んでいきます。
クマノザクラは、いま確かに人里に存在していて、春になればその花を楽しませてくれます。できることならそれをより近くで簡単に見たいと思う気持ちは充分に理解できます。しかし僕の中では、あくまで「いまあるクマノザクラに悪影響をもたらさない範囲で」という前提があります。多くの人はただ事実を知らないというだけで、「いまあるクマノザクラが犠牲になっても良い」と思っているわけではないのだと思います。
僕はサクラを人のために利用するのはよくないと言っているのではありません。むしろ地域のために最大限活用されるべきだと考えています。だからこそ、クマノザクラに対して悪影響を与えるようなことは慎むべきだということを伝えようとしているのです。長期的に活用していくことができるように工夫をするべきだと言っているのです。
もしここで自制することができないのであれば、人間はいったいどこで線を引くことができるというのでしょうか?
あがらの桜をまもるんや!
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