【樹木医の仕事①】樹木医甚兵衛ブログ

樹木医

最近よく若い年代の子から「樹木医になりたいのですがどうしたらよいですか?」と質問されたり、企業に対して普段の活動について説明したり、講演で樹木医の仕事についてお話しする機会があったりと、自分自身で樹木医とは何だろう?と改めて考える機会が多くありました。

「樹木のお医者さんです。」という一言がもっとも端的に表現する樹木医なのかもしれませんが、現実にはそれほど単純でもありません、ヒトやその他の動物とは大きく異なるであろう樹木の命に対する価値観が、それぞれによって大きく異なることが要因となっているように感じます。

例えば自分に命の危険がある状態になったとしたら、お金の問題は後回しにして治療を受けようとするでしょう。それが自分ではなく大切な家族だったら?ほとんどの場合「お金の心配はするな。」と言うのではないでしょうか?あなたを癒してくれるワンちゃんやネコちゃんも大切な家族に含まれることが多いですね。

ところが樹木の場合、それを大切な家族と認識する人はそれほど多くないでしょう。その治療費に数百万円払える個人はほとんどいないと思います。ともすれば、必要ない樹木は健全な状態であっても伐採して欲しいとい言われるのが現実です。

樹木医という立場を、横浜と古座川(大都会と超田舎)という両極端な場所で経験している人間は、日本中を探してもきっと他にはいないでしょう。そんな僕のお話を少しずつお伝えしていこうと思います。

今回はその1回目です。

なぜ樹木医を目指したのか

そもそも僕がなぜ樹木医になろうと思ったのか。少し人生をさかのぼってお話ししようと思います。

僕は自分自身の存在価値に疑問を感じたり、自分が生まれたことの意味を考えたりする少し変わった子どもでした。「時間がたつ」ということや自分が子どもであることを疑問に思っていました。周囲の友だちの反応や、大人たちの顔色など、ひとつひとつの出来事をとても敏感に感じていたように思います。

若いころには柔道をやっていて、特別良い成績を残したわけではありませんが、いくつかの大学の指導者から進路について声をかけてもらっていました。ところが高校二年生の時、肩に大きな怪我をして手術やリハビリを繰り返しました。自分なりに努力はしたつもりですが、明らかに元の状態には戻りませんでした。ひとつひとつ努力を積み重ね、自分自身の身をを削るように打ち込んできたものを突然失うという出来事は、当時の僕にとっては大きな挫折であったように感じます。

それまでの自分の道を見つめなおしました。「くだらない争いや裏切りばかりの人間が世の中に存在する価値などあるのだろうか?」「自然から搾取し、自然を破壊し続ける人間には存在する価値があるのだろうか?」そんなことを考えながら、何もしなくても価値のある動物や植物のことなど、人間以外の生物のことを深く学びたいと考えました。そうして選んだのが生物学や自然科学の分野であり、東京農業大学への進学でした。それまでまともに勉強してこなかったので一浪して合格し、大学で学びながら将来の夢として想い描いたのが「楽器職人」です。

樹木というものは不思議な存在で、生きている状態でも内部の多くの細胞は活動を既に終えています。言い換えれば、細胞としては「死んでいる」状態になっています。それに対してもちろん生命として、枯死したり切り倒されて迎える生物学的な「死」は確かにあります。ところが、例えば古い民家や家具や道具などに使われている木材はどうでしょう?大切に加工され、使われ、活かされています。そのような木の魅力を知ったとき、僕はこれを「生きている」と感じました。作られてから300年たってなおバイオリンの最高峰として扱われるストラディバリウスは、人の手が関わることによって、木の存在価値を高めることができるものの頂点だと感じました。そんな手を持つ人間にはきっと価値がある。だから自分自身がそういう存在になりたい。価値のある人間になりたいとそう思ったわけです。

いざ就職活動をする時期になり、日本各地の楽器工房を訪ねて歩きました。見つかったところは結局、長野県で給料が4万円の楽器の修復の仕事だけで、こうなったらもう思い切って海外に行くしかないと思いました。しかしちょうど同じころ、姉の娘が小児癌であることが発覚しました。神経芽腫という骨髄の中の神経細胞に発生する悪性腫瘍で、医者からは手術が成功したとしても下半身麻痺と告げられました。それまでは僕は姉とあまり仲が良くなかったのですが、子どもを守るために戦う姉の姿を見て初めて尊敬し、何かあれば助けなくてはいけないと強く思いました。もちろんそんなことを言えば姉は怒るでしょうから、勝手に黙ってそう思っていただけです。しかしそのためにはそばにいて生活を守る必要があります。海外に行って楽器職人の道を目指すということと、実家に残って家族を守るということを天秤にかけて、楽器職人の道は断念することにしました。

この時はじめて目指したのが樹木医です。実家のまま働きながら目指せる自分の夢を探した結果でもあります。単純に切り倒した木を活かすなどとまわりくどいことをしないで、立ったままの木を長く生かしてやろうと思ったわけです。造園業で給料をもらいながら実務経験を積んで、樹木医資格を受験しようと思いました。毎朝5時に起きて誰よりも早く会社に着き、神棚の掃除や休憩の時のお茶や道具を準備し、会社に並んでいる植木の名前を覚えながら他の人の出社を待ちました。仕事中は竹箒で叩かれたり、理不尽な怒られ方をすることもありましたが、必死に走り回る日々を過ごし、仕事から帰ると植物や造園の資格に関する勉強です。毎日19時から遅い日は1時くらいまで。遊ばなかったわけではありませんが、休んだ記憶はほとんどありません。そんな生活を5-6年続けていたら、いつの間にか樹木医の資格試験に受かっていたという感じです。その頃のことは必死過ぎてあまりよく覚えてません。

樹木医以外の必要な資格もほとんど取得し終わり、黒い会社に残る意味は無くなりました。僕自身も必死な生活でしたが、気が付くと姪っ子は奇跡的に大きな障害も残らず容体は安定し、姉も実家を離れて自活できるように。僕自身も妻と出会い、結婚し、それまでの会社で持ち腐れだった樹木医という資格を活かして仕事をするために自分で事業を始めました。

なぜ樹木医になろうと思ったかということを簡単に言うなら、樹木の医者なんて粋で格好良いと思ったからだと思います。純粋で汚れのない樹木を護る樹木医という存在は、掛け値なしで存在価値があるように思えました。植物は、どんなに尽くしても決して裏切られるということはなく、価値観がかわって努力が無駄になることもありません。ただこちらが献身的に尽くすだけの樹木医は、崇高な存在だと考え、憧れました。(もちろんこれは実際に自分が樹木医になるまでの妄想なのですが。)

樹木医の役割

樹木医は林野庁の国庫補助事業として始まった資格制度であり、当初は農林水産大臣が認定していました。現在は財団法人日本緑化センターに認定事業が移譲され、令和4年12月で約3,173名が認定されていると書いてあります。林野庁、国土交通省緑政部門、環境省、都道府県、政令指定都市、東京都23区(特別区)、緑化担当部局(林務、公園緑地、道路緑化管理)、都道府県教育委員会、都道府県緑化センターなどで樹木医資格を有する者の名簿情報が共有され、活用されているということになっているようです。

実際にロープクライミングで剪定を行った「旧細川邸シイノキ」

もともとは日本国民共有の財産である文化財(天然記念物)を適切に維持管理し、健全な状態を保っていくために必要な知識や技術を持った専門家を認定するということが資格創設の目的だったと聞いています。また現在ではそれに加えて危険樹木の診断という役割も重要視されています。診断及び治療を通して落枝、倒木などによる人的、物損被害を抑制したり、後継樹の保護育成ならびに樹木の保護、育成に関する知識の普及および指導を行う専門家として、その役割を広げています。

樹木医になるには

樹木医として認定されるには、もちろん試験に合格しなくてはいけません。それなりに難しい試験だと思います。僕が合格したのはもう10年以上前のことで、いまではだいぶ変わっていますが、現在のことは日本緑化センターのホームページに書いてありますので、僕はその当時のことを書きます。

一次試験を受けるためには、7年間の実務経験が必要でした。造園、林業、植物園などに勤務し、樹木の治療などに関する業務に従事する経歴書を添付しなければいけませんでした。7年というのは他の資格と比較してもかなり長い期間ですが、樹木とはいえ「医」に関わるのだからそのくらいの経験は必要なのかもしれません。しかし僕はたまたま大学の在学中に樹木医補という制度ができたため、実務経験が短縮され、7年を待たずして受験することができました。

第一次試験は午前中の4択問題と午後の4問の論述問題に分かれていました。全国から集まった受験生のうち次の二次試験に進めるのは120名です。というよりむしろ二次試験に進む120名を選抜するためにあるのが一次試験と言った方が正しいでしょう。どんなに点数が良くても上から120番までに入らなければ不合格ですし、どんなに点数が低くても120番以内であれば合格になるという試験です。とはいっても、全国からコンサルタントや大手建設業などの業界で実務経験を積んだおじさんたちがたくさん集まるわけですから、それなりに点数を取らないと合格はありません。母校である東京農大が試験会場だったので、僕はホームの気分で気軽に受験しました。とりあえずどんな試験か見てやろうくらいの軽い気持ちでした。試験対策はどうしたかと言えば、正直ほとんどなにもしていません。樹木医の手引きという参考書があるのですが、あまりにも分厚くて一度開いただけでほとんど触りませんでした。しかし勉強をしていなかったのかと言えばそうではありません。造園技能士などの造園や植物に関する資格の別の試験勉強はしていましたし、もともと理化学書を読むのが好きで、常にそういった専門書を読んでいました。そして試験の内容が大学で勉強していたことがそのまま出てくるような問題ばかりだったので、それが何よりの要因だったように思います。

第二次試験は選抜された120名を前期と後期にわけて60名ずつ、筑波の研修センターに2週間の泊まり込みでした。朝から夕方まで座学と実地研修を行い、翌朝に前日の内容を筆記テストで考査するというのを2週間ひたすら続ける(あいだの日曜日だけ休みだったか?)まるで拷問のような日々でした。

しかし何よりも苦痛だったのは、2週間という期間、毎日が有給休暇を消費しているうえに、10万円以上の受験に関わる費用もすべて自己負担で行けなどと言う会社に対する不信感をいだきながら行ったら、そんな扱いを受けているのは同期の60人のうち僕ただ一人だったことかもしれません。(入社してから初めて使った有給休暇だったように思います。)それを知ったとき僕は、この二次試験に合格したら務めていた黒色会社を辞めようと決心しました。二次試験の最終日には集団面接があり、別の人が試験のできの悪さを指摘されていました。「なにもみんなの前でそんなこと言わなくてもいいのにな。」と気の毒に思ったことをよく覚えています。

2週間も閉じ込められた後に急に解放されると、一時的には合否などはどうでもよくなり、ただ「早くおうちに帰りたい!」という思いでそそくさと帰路につきました。けれどもつくばエクスプレスに揺られる頃には、「この苦痛はもう二度と味わいたくないからやっぱり合格していて欲しい。」と強く願っていました。ぼくば狭いところに閉じ込められるのがすごく苦手なんだなと自覚したことを思い出します。

多少の苦痛はあったにせよ、僕は一回目の受験でとくに試験対策をすることもなく、なんとなく樹木医試験に合格してしまいました。

※【樹木医の仕事②】に続きます。

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