【高齢化という言い訳】古座川の樹木医甚兵衛

文化

高齢化という言い訳

地方に限ったことではありませんが、イベントやお祭りなどの文化行事などのざまざまな活動が中止になることが当たり前になっています。

短期的には新型コロナウィルス対策が理由となっている場合もありますが、あるいは表向きにはといった方が正確な表現なのかもしれません。

先日、近くで伝統的な行事が継続できなくなったというニュースを目にしました。その理由は「高齢化が進んだため」とされていましたが、原因として高齢化を挙げることは適切なのでしょうか?

高齢化問題は、誰の目にも明らかな問題です。必ず訪れることが予想できたし、今後さらに加速度的に深刻化していくことが分かりきっています。効果的な対策は取られておらず、改善する見込みはありません。

この場合、原因とするべきは高齢化ではなく、確実に訪れる高齢化という問題に対して、適切な対策がとられなかったことにあるのではないかと僕は考えています。

若年層人口を増加させるという根本的な解決には、政治のような大きな力が必要であることは言うまでもありません。しかし文化行事が継続できないことの原因を「高齢化」としている限り、いま行われているあらゆる文化的な営みは、間違いなく今後さらに失われていきます。

若者を増やすことだけが文化を守る解決策ではありません。「不可抗力だった。」「自分達には何もできなかった。」自己否定をしないために、だれも傷つかない言い訳を探しているのではないでしょうか?

樹木医甚兵衛で支援している神玉神社鯛釣り祭りも、一度は継続を断念されたお祭りでした。何もしなければ、他の行事と同じようにただ地域から失われていたのだと思います。もちろんこの活動が何年続けられるかはもちろんわかりませんし、失敗すれば(あるいは失敗しなくとも)多くの人が批判するかもしれません。

文化や芸術は衣食住とは異なり、生命を維持するため直接的に必要なものではないと考える人もいるでしょう。しかし、他の生物とは異なる僕たち「ヒト」が、文化的な最低限度の生活を送りながら健やかに生きていくためには、そこに他者とのコミュニケーションが必要です。そして他者とのコミュニケーションと、文化や芸術とは、互いが相乗的に高め合う切っても切り離せないような関係にあります。

また、豊かな文化は、非効率の延長線上にあるものだと僕は考えています。非効率であることはつまり、経済性とは無関係のところにその価値が存在することを意味します。経済性や自己保身を優先し、貨幣価値でしか物を測れないのが政治なのだとすれば、これらを守っていくには少し役不足なのかもしれません。

そのとき直接それに関わる人たちは、何もせずにただ衰え、そこに誰もいなくなることを待っていれば良いのでしょうか?フェードアウトする過程やその選択の先に、豊かさはあるのでしょうか?

その文化が、本当に守るべき大切なものであるならば、継続できない原因を高齢化や政治に押し付けるのではなく、自分たちの選択や行動にあったと受け入れる勇気がまず必要なのではないかと思います。

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