【言葉の力】古座川町の樹木医甚兵衛

樹木医

インターネットなどの通信技術が発達し、私たちはいくらかの利便性を得ることになりました。しかしその反面、言語情報は著しく衰退していることを感じます。一瞬にして膨大な容量の保情報をやり取りできるようになった結果、写真や動画などを用いた方法が情報伝達の主流となっています。

ペンは剣より強しという言葉を中学校の社会科の授業で習いましたが、言葉が持つ力は失われかけています。「どんな内容か」ということよりも、「誰が発したものか」が重要視されるようになった結果、それを発する者の地位や権威ばかりが重要視され、言葉の本質が見極められたうえで評価されることは少なくなったのではないでしょうか?

技術革新の功罪

情報分野における技術革新は目を見張るものがあります。僕が若いころに登場したパソコンや携帯電話は目覚ましく進化を遂げ、扱われる情報の量は飛躍的に増加しました。しかしそれらによって僕たちの生活が劇的に豊かになったかといえば、そうではないようです。

経済成長は当初の予想をはるかに下回るものだそうです。もたらされたのは効率化ではなく、むしろ時間の浪費であると指摘されています。不要な情報から逃れることに絶えず労力を注がなければ、僕たちの生活はいとも簡単に押しつぶされてしまいそうになります。

膨大な量の情報を前にして、僕たちは瞬時にそれを選別しなくてはいけません。わずかな手がかりだけを頼りに、その価値を判断するのです。そうしなければ、圧倒的な物量によって埋め尽くそうとする情報の海にあっという間に溺れてしまうでしょう。

受け手は、自分にとって必要とするものかどうかを見極めなくてはいけません。膨大な情報を処理するためには、スピードが重要視されます。その結果、選別に使われる「ふるい」は真偽や内容などという深い価値観ではなく、サムネイルや冒頭の画がその目に留まるかという印象になってしまうのがいまの現状です。

小手先の技術

それに対して制作する側は、内容ではなく小手先の技術に固執していきます。最初の選別でこぼれ落ちてしまえば、せっかく手掛けた作品は、世の中からその存在を認知されないまま深い深い情報の海の底へと葬り去られてしまうからです。

そうならないようにするためには、ふるいに引っかかる技術を磨くことが何よりも優先されます。内容や本質的な価値をあげることは後回しとなるのは、このような現実が招いた当然の結果であるとも言えます。その結果として、中身がおざなりになった作品が、我が物顔で世の中に出回っているのがいまの情報社会だと言えるのではないでしょうか?

冒頭の10秒で人を引き付けるフックがなければ、その動画は見てもらえない。見てもらえないものは価値がない。それは確かにひとつの事実ですが、そのせいで本質が見失われるのは、制作者にとって本意ではないはずです。

負のスパイラル

SNSを見ていおもしろいことを見つけました。投稿のタイトルとリンクに貼られている記事の内容が異なっていたのです。ところがSNS上のコメントでは、そんなことはお構いなしにタイトルの内容についてたくさんの批判のコメントが寄せられていました。

そもそもリンクに貼られた本文の内容など、誰も見ないままタイトルだけで反射的にその記事に関して批判をしているのです。

制作する側は小手先の技術を駆使して数字を得ることに専念し、受け手側は自分を守るために深入りしない。そのような関係性が構築されてしまったことは、相乗的にお互いを大きく変化させました。

言語情報は映像を補足するための単なる附帯情報となる場合も多くなり、その価値は著しく低下してしまいました。作り手がそのことを危惧し、譲歩してどれほど工夫を凝らしたとしても、あまり意味をなさなくなっているのかもしれません。受け手が受け取る力を持っていなければ、その手からはこぼれ落ちてしまいます。

日本語を読むことができない人が、この文章を読むことができないのと同じように、誰にでも理解できる表現をしようと努力したところで、最初から聞くことができていないのでは、心に届くことはありません。

言葉の力

このような社会的風潮は、言葉が本来持っていたはずの「人と人とを結びつける力」を、それとは全く逆の「人と人とを分断する力」へと変えてしまったかのように感じさせます。言葉は人が生み出した中でも最も優れた道具のひとつであり、人が社会生活を送るうえでいまでも重要な役割を果たしていることは疑いようのない事実です。しかしそれを使いこなせたはずの人が、自らその使う力を退化させてしまったのです。

衰退したのは言葉の力ではなく、それを扱う人の力、つまりは言葉を発する力と受け取る力なのだと思います。その結果伝わらない言葉は反感や対立を生み出し、立場を異なる者との間に生まれた溝は、さらに深いものへと変わっていくのです。

優れた音楽や絵画、スポーツ、写真や動画作品が、人の心や国の進むべき道を動かす瞬間は確かにあります。それらの力も、それに関わる人々も偉大なものであり、否定されるべきではありません。しかしそれらはあくまでひとつのきっかけであり、その先に進むためには、必ず言葉の力が必要になります。

僕たちは理解と共存のために、もう一度言葉の力を取り戻す必要があります。最後に人と人とを結びつける役目を果たすのは、言葉でなくてはならいないと僕は思います。

そしてそれを訴えるために、僕がまだ言葉を使っているという事実は、言葉にはまだ力が残されているということの何よりの証なのかもしれません。

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