正義という言葉の概念がその立ち位置によって変わってしまうのと同じように、自然という言葉の概念もまた、発する者のいる場所によって変化してしまうものです。
あなたにとって、自然とは何でしょうか?
「山、川、海、草木、動物、雨、風など、人の作為によらずに存在するものや現象。また、すこしも人為の加わらないこと。また、そのさま。」
「自ずから然るべくあるもの、あるいは生成するもの」
僕は1981年からの30年以上の歳月を横浜という都会で過ごし、2015年に和歌山県の古座川町という過疎地域に移住した樹木医です。樹木医である僕にとって、植物は常にとても身近な存在でした。そしてそれはこれからも変わることはないでしょう。僕にとっては、植物という存在の延長線上に生態系が存在し、それが自然というイメージを形作っています。
僕の古くからの友人が古座川に遊びに来てくれたとき、自分達の四方を囲む山々を見てこんなことを言いました。「自然がいっぱいでいいなあ。」しかし彼の視界にある山は、自然林を伐採し、人工的に植林され、その後管理を放棄されたスギ林でした。その事実を伝え、「それでもこの山は自然だと思うか?」という問いを投げかけました。するとその友人は、それまで想像だにしなかった事実を知らされ、答えに窮していました。
僕は、放棄された人工林を美しい自然と感じた彼の感覚が、まるっきりの間違いであると思っているわけではありません。彼は都会での生活の中で、普段あまり目にすることのない、たくさんの樹木で埋め尽くされた山に囲まれた景色を見て、それが自然だと思ったのでしょう。
例えば都市部にある植栽された緑化樹木や、それを取り巻く公園などの施設は、例え由来や維持管理が人工的であったとしても、それはやはり自然と言えるでしょう。そこには確かに生命が存在し、お互いに関わり合うことで生態系を成しています。帰省する横浜や出張で行く大阪で、都市の中の公園に立ち寄れば、確かに心は和み自然を満喫することができます。そしてそのような環境を創り出し、維持していく都市緑化や造園・ランドスケープなどは、都市の中に小さな自然を取り込もうとする素晴らしい発想であり技術であると思います。しかしそれは本来の自然という言葉が表す意味とは差があるように思います。
それと同時に、いま僕が住んでいる古座川という環境の中で、人工林を自然だと表現することには、やはり強い違和感を覚えます。それはそれぞれの状況に応じて、求める自然の質が異なっているからであると僕は考えています。
つまり一般的に普段使われている「自然」という言葉の中には、辞書に出てくるような言葉の定義とは別に、周囲の環境と比較してより自然に近い状態と判断される「相対的な自然」と、本来の意味である「絶対的な自然」とがあるのだと解釈できるのかもしれません。
自然という日本語を最も一般的に表現している英語は「nature」でしょう。しかし「wilderness 」という言葉もまた、自然を表しています。「wild」は「野生」として定着している単語ですが、「wilderness」は特に強調するように、「原生自然」や「手つかずの自然」という翻訳をされることが多いように感じます。
それを踏まえると、自然を保護するということ自体、とても不自然なことであるとも言えます。人の手が入らないものを自然と呼ぶはずなのに、僕たちは手付かずの自然を人の手で護ろうとするという大きな矛盾を内包しているのです。ではこれをどのように受け止めるべきなのでしょうか?
僕たちは自らの生命を維持するために、たくさんの生命を殺しています。生きることそのものが自分以外の他者から奪うことなのです。だからこそ僕たちは可能な限り慎ましく振舞う必要があり、可能な限り配慮する必要があります。けれども人の欲望はとどまることを知りません。より快適な暮らしを、より便利な道具を。それはいったい何のためなのでしょう?その追及が、僕たちの生命を支えている自然を破壊し、ヒトと自然との関係性が維持できなくなるのでは、本末転倒ではないでしょうか?
何気なく生活していく中で、必要以上に多くの物を自然から搾取し、破壊を繰り返しているのです。僕たちはまだ間に合ううちに思いとどまり、後戻りをする勇気を持たなくてはならないのかもしれません。
たとえそれが矛盾していようとも、自然はやはり護るべきものだというのが僕の答えです。
そこには常に謙虚な姿勢であることが求められます。自然保護や環境保全を謳う団体は、世の中に星の数ほど存在しています。それらのうちの多くが、うわべの活動だけで「自分たちは良い行いをしている!」「社会貢献をしている!」と世間に大声でアピールをしながら資金を集めています。
木を植えることは誰にでもできるとても簡単な行為です。環境保全という欲求を満たし、自尊心を充足させるにはちょうど良い安易で安直な行動でもあります。多くの人を納得させることも容易です。そこは確かに自然を守ることの入り口付近に位置していますが、それがそのまま自然を守ることとなるわけではありません。
自然を護るために行う植樹は、その方法や由来の遺伝的な部分に至るまで、慎重に検討される必要がありますが、多くの人はそのことに気づかずにいます。なぜなら自然とは、自ずから然るべくあるものでなくてはならないからです。僕たちは自然から学び、自然に沿って行動する必要があるのです。
さて、もう一度同じ質問を投げかけます。
あなたにとって自然とはなんでしょうか?
あなたの護りたい自然とはなんでしょうか?
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