多くの血液を失った場合、輸血は生命を救うための処置として非常に有効である場合があります。
しかしそれは失血という緊急事態から抜け出したり、生命をつなぎ留めておくための一時的な対策であって、根本的な原因を除去することにはなりません。大切なことは出血している箇所を見つけ出し、適切に止血を行って傷を治癒させることでしょう。
それらの医療行為は、状況に応じた適切な判断と処置によって、はじめて「生命を救う」という目的が達成されます。それは医者のように特別な知識がなかったとしても、十分に理解できることだと思います。
もしも輸血を行うとき、その血液が新鮮なものではなかったらどうでしょう?衛生的に問題があったら?血液型が適合していなかったら?あるいは必要な知識や技術を持たない人がその処置を行おうとしていたら?
安心して身を委ねることは難しいでしょう。状態は好転するどころか、むしろ悪化させてしまうことにつながるかもしれません。
木を植えることには様々な目的がありますが、大きく分ければ【景観美化】【災害防止】【木材の収穫】【社会福祉】【教育】そして【自然環境の保全】などでしょう。これらの目的はいくつかが同時に満たされることももちろんありますが、本質的には異なるものだと樹木医甚兵衛は考えています。
自分や大切な人に対する医療行為であれば、【どんな血液が使われるのか】【信頼できる人がその処置を行うのか】くらいのことは気になりませんか?
失われた自然を取り戻すために植物を植えるという行為は、言わば輸血にあたる行為なのではないでしょうか。自然が失われていくことを何とか食い止めようというその善意に関しては、疑いようもなく素晴らしいことであり、適切に評価されるべきです。しかし闇雲に木を植えることが、自然環境を治療することに繋がるのかと言えばそれは違います。あくまで輸血は生命を救うための一時的な手段のひとつに過ぎないのです。
目的が生命を救うことであるとき、多くの人は「間違った治療は逆効果になる」ということを知っています。しかし自然環境を保全しようと考えたとき、なぜか盲目に「木を植えることは良いことだ」と考えられ、その植樹が完治へと向かうための質の良い輸血かどうかについて触れられることはほとんどありません。多くの人は正常な判断ができなくなっているのです。その結果、数量や行動そのものだけが安易に評価され、重要であるはずの質の部分はほとんど無視されています。
僕自身これまで多くの植樹を行ってきましたが、そのようすを新聞やテレビなどで紹介していただくこともたくさんありました。そんなときに必ず聞かれるのが、「今回は何本のクマノザクラを植えましたか?」と「参加者は何名でしたか?」というものです。いつも僕はその質問に答えますが、内心では「もっと良い質問をして欲しいな」と考えていて、たいていの場合、多くの人に伝えたい核心的な言葉はすべてカットされています。
自然保護を目的として植樹を行う場合には、特に【どこに植えるのか?】そして【どんな植物を植えるのか?】ということを慎重に検討する必要があります。
良くも悪くもすべての生物は、常に互いに影響を及ぼし合いながら生きています。植物を植えたいと思うとき、その場所にはもともとある環境というものが存在しています。影響を及ぼす可能性のある周囲の環境について、あらかじめ調査をする必要があります。それを無視して自然環境を保護することはできません。「患者の状態を無視して適切な治療を行うことはできない」というのと同じです。
生物を人為的に移動させることは、自然環境にとって大きなリスクを伴います。特に植物においては、根を張った一個体が自らの意思で移動するということはあり得ません。
最も顕著に表面化する例として、直接的な競合や淘汰という問題があります。人為的に持ち込まれた「ある側面において優秀な種」が野生化し、場合によっては侵略的外来生物となって、もともと地域に自生していた種の生息域を奪ってしまうことがあります。
自生する種と近縁な種や、同じ種であれば良いというわけではありません。そこには繁殖干渉や遺伝的撹乱といった複雑な問題もあります。
広い範囲に分布する生物種においては、それぞれに地域性というものがあります。それぞれの生物の行動範囲には制限があるため、同種であっても遠くの地域とは遺伝的な交流がありません。つまり生殖が隔離された状態にあります。これを何世代も繰り返すことよって地域ごとに変異が生じ、外観的な特徴が変化したり、それぞれの気候条件に対応したりすることが可能になります。自然が長い時間をかけて繋ぎ、築き上げてきた地域性が、人が行う安易な生物の移動によって一瞬で失われてしまうこともあるのです。
つまり地域外から生物を持ち込むことは、可能な限り避ける必要があります。地方に行くほど周囲には影響を受ける自然環境が多くなります。都市緑化とは全く異なる配慮が必要になるのです。
地方での植樹において、苗木の地域性という問題は極めて重要な意味を持ちます。
そして最も大切なことは、いま見えているものが全てではないということを心の底に抱き、自分の行いは過ちであるかもしれないと常に疑うということだと考えています。
科学は僕たちの生活に多大な恩恵をもたらしていることは事実ですが、その能力は決して万能ではありません。そしてその世界に長く身を投じた者ほど、深いバイアスにとらわれていることに気づかずにいます。
その植栽は自然環境を保護することにつながるのでしょうか?
その輸血によって、本当に生命を救うことがでるのでしょうか?
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